礼拝に参加して

「聖書はかにの身のようにぎっしりつまっていて、どこからとっていいか、どこから話していいかわからない」
その言葉とはうらはらに、山田先生、今日は話すことがないようです。


「ここに立つとあがっちゃって、何が何だかわからないから、どこにいっちゃったっけ・・・え〜っと」
先生、今日はかなりおかしいです。


「聖なるものとは神のもの。立派であっても神のものでなければ聖なるものではない。」
「神様のものとは神が養う。神の愛を生きる力として生きさせて頂く。」
「神から愛されて神のものとされ、聖なるものとなる。」
聖なるものとして生きるのはつらいこともある。しかし神の救いの証人として悩む者のそばに生きよう。
「聖なるものとされた私達は、神様がこの世に注ぐ命の水。」
エゼキエル書47章8節〜9節
「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入っていく。すると、その水はきれいになる。川が流れていく所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。」


わけわかんなくなっちゃったせいでしょうか、先生、途中からのってきました。


448番は思いきり歌いました。死ぬまでにあと何回このうたを礼拝堂で歌えるかしら。


先生によると、448番は会衆に歌わせるには抵抗があるうたなのだそうです。だからなかなか選ばれないそうです。