礼拝に参加して

ダンボール箱に入ったミカンがカビているのを見たことがありますか。」


今日は好調な滑り出しですね、先生!


「1個のミカンがカビると、それだけでは終わらないのです。その周りのミカンまでカビさせるのです。」
これは「ソドムとゴモラ」のたとえです。自分自身が腐るだけでなく、周囲の人間をも腐らせる、そんな人です。
また、「愛されなかった者」は犬にたとえます。人から愛されなかった犬は人に対する不信がつのり、かわいそうだと手を差し伸べてくれる人にかみつく。近づいてくれる人に、かむことしかできません。
そのような人々を神は「愛された者と呼ぶ」のです。これは私たちが一升瓶に水を入れて、よっ大吟醸と呼ぶのとは違います。大吟醸のように手をかけられて、慈しまれて呼ばれるのです。


う〜ん、カビたミカンに続き大吟醸のたとえか。


私たちは器であり、その器には色々なモノが入っています。喜び、悲しみ、憎しみ・・・、しかし神は憐れみで満たすといいます。
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」(2コリント 4:10)


汚れ、欠けている器でも、イエスで満たされた時に、この世の光として、希望として、現される。